久しぶりの更新!
最近、自分の文章力の無さに痛感している。授業料免除の事由事項欄、イエシムさん、レさんとの英会話etc。まぁ、その文章力を少しでも上げるための自己満足のブログな訳ですよ・・・・(泣)
さて、本題に入るための導入として、うちの研究室で石川県庁に2名合格した!!(行政&土木)おめでとうございます。そして1年間お疲れ様でした。来春からは同じ社会人1年生として頑張って参りましょう!!
本題(と言っても、また先生との雑談から生まれたものだが)。
では、何故これが導入なのか?1つ気になって欲しいことがある。それは「理系のこの学類から『地方上級・行政』に合格したということである」
これはつまり、大して専門的知識やそのバックグラウンドを持たず、たった1年そこら勉強した学生が石川県を動かす一因になったということである。もっと言えば、落ちた文系の学生は何のために大学に来ていたのだろうか?
言い方は非常に悪い。それはお詫びを申し上げます。しかし、一人の市民として疑問に思わないだろうか。これから、社会人になる私は非常に疑問に思う。何故そのような人に左右されなければならないのか?何故その人たちのために税金を納めなければいけないのか??
合格した人々は一所懸命勉強されただろう。なぜなら、人生を決める選択なのだから。しかし、果たしてそれは勉強と言えるのだろうか?
私は、それはテスト対策をした結果ではないだろうかと思う。入試でも同じことだが、こういう問題が出るから、こう解けばいいというパターン化。これが出るから教科書を読み、出ないならやらなくてよいという取捨選択。まさに、「対策」である。
勉強とは、本来、現象や物事を深く理解し説明できるようになるためにやるべきではないか?
確かに、日常はパターン化で終了することが大半であり、そのパターンすら処理できない人はきっと無能と呼ばれるかもしれない。だが、私たちはそのパターンをこなすことでお金を稼ぐわけではない。
社会人とは、そのパターンにはまらないもの、あるいは勉強により得た理解を用いて正確に、そして常に疑問を抱き、それを解決する。それが仕事をするということである。そして、それに対し賃金が支払われる。これが社会の仕組みではないだろうか。
もちろん、そこに到達するまで勉強するというのは理想論であり、個々の勉強できる量や時間は限られている。全員が全員でなれるはずもない。私もその一人である。勉強するかどうかは個人の判断だが、根本として勉強とは対策をすることではないはずである。
もし、勉強=試験対策ならば、社会人が口をそろえて「学生時代にもっと勉強しておけば・・・」とは言わないはずである。何故なら、入社対策をし、関門を突破した時点でもう彼らの勉強は終わっているのだから。
彼らは「もっと知識、理解を深めさえしていれば・・・」と、言うべきである。
そして、それを正しく理解し行動している学生はほとんど皆無ではないか。
(来年からは自分が言いたくはないけど・・・・・・)
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